おぉきにおぉきに。

京都盆地の南の端っこでのんびり暮らす主婦のつれづれ。

『捜査線上の夕映え』を読みました。

 

 

有栖川先生の作品で、火村シリーズ初期作品『朱色の研究』の夕陽の厭世観や寄る辺なさ、ノンシリーズ短編集の『幻坂』などそれはそれはもう映画的な美しい夕景を集めた御本なんですけれども。
この『捜査線上の夕映え』は、これはまた火村先生とアリスさん、本当にお互いかけがえのない存在で、緩く強く相手を信じているなと改めてジーンとしました。
そして、旅。
コロナ禍という現実を、火村先生とアリスさんと捜査関係者もまた同じように生きていて、家の中に籠もるばかりで息が詰まる我慢の日々に飽きて、旅に出て遠くを見はるかしたいというコロナ禍からの解放を希求する私達の代わりに美しい瀬戸内海の夕景を見に行ってくれました。読んでいてこちらの気持ちまで軽くなるなんて、有栖川作品マジックといいますか、クールな本格ミステリと郷愁溢れる小説のバランスの良さからくる唯一無二の読み心地だと思います。
序章で、また出たあの記者!そして帯にあるジョーカーの存在、って、この記者が引っ掻き回すのかな?と思ったらまあ、又しても憧れの人には歯牙にも引っ掛けられない役回りで気の毒になったりもしましたが、私もあの記者は気持ち悪いのでこれからもこういう感じでお願いします。
で。
有栖川先生のミステリはいつも読むのに難儀するほど容疑者が多いわけではないんですが、この『夕映え』はまた極端に関係者が少なくて。それでこの長編って凄いです。これもコロナ禍で捜査することが軸になってるからかな。聞き込み対象者は多いしそこにもコロナの現実感がありますけど(感染して入院中で警察が話を聞けない)(ようやく話が聞けて、そしたら一気に捜査が進む)。
マンションや町中の監視カメラ、駅のカメラ、もうあちこちで録られることに慣れっこになってるからアリバイ作りにもアリバイ崩しにもカメラの存在は込み込みの現実に、このコロナ禍でマスク装着まで加わると、ミステリ的には“顔の無い死体”ならぬ“顔の無い容疑者達”になってしまって、そりゃ捜査関係者は難儀しますよね……。
真犯人の弄した印象付け、ここで長年の“アルマーニ武装する森下君”の存在が活きてくるのがまた凄いなと思いましたね。彼のこういう価値観と視点がちゃんと伏線になってるの、シリーズを読み続けてるファンとして唸るしかなかったです。
火村シリーズはサザエさん世界でありながら、読者の時代観念と現実感を共有しているので、職業選択と価値観についてや、経済環境についてなど、読んでいて辛く思うことはないんです。けど。
犯人の動機、というより犯人の価値観や生き方、意識の在りようが、「こういう人がいったいどれだけ現実に埋もれているのか……」とふと考えると怖いなと思いますね……ホラーではなくて、人として怖い気がする。
今回の犯人って、モロッコ水晶の犯人に近いタイプで、わかりやすいほどの熱量は無いけどやっぱりサイコパス…なんというかイマドキの人、なんですよね……どこにでもいそうな。でもおそらく現実でそうそう知り合いになることはなくて。こんな性質の人は多くても犯罪は割に合わないと計算するところまでセットなんじゃないかな……。そこで犯罪者になってしまうのがミステリであり、「絵空事」として楽しませてくれる「小説」の真骨頂だと思います。
近い人といえば、コマチさんは、雑に括れば火村先生と同じタイプだったんですね。と思ったんですが、違うかな……。
ただし、火村先生とコマチさんは似て非なるというか、自分軸がブレることはないのに自分の思考にこだわらないで受け入れる火村先生には、コマチさんは性善説の人に見えるかもしれない。都合が良すぎる考え方というか。
おそらく、並んで瀬戸内海の夕景を見て感慨を共有できるのはコマチさんじゃなくてアリスさんなんでしょうね。
火村先生と同じタイミングでトリックが解けたアリスさん、というのも初めてなら、警察関係者の面々がこの二人の存在をここまで描写するのもほぼ初めて(兵庫県警のあの人のモノローグにあったり、京都府警の警部の肩入れ具合など、それぞれ表現方法は違うけど同じ意味のことは今までにもありましたが)
篠宮時絵婆ちゃんのオンライン登場もこのご時世らしく京言葉は馴染み深く、火村先生が十四年間の京都の暮らしで言葉は変えなくてもお寺さんを呼び捨てにしなかったという京都人には嬉しいシーンもあったり。
瀬戸内海、良いですねえ。
有栖川先生は夜を描く作家、と以前に評されたことがありますが、最初に挙げた朱色や幻坂やこの夕映えなど零れるような夕陽の静謐さも素晴らしいです。……朝焼けの美しさとかお昼間のキラキラ時間に殺人事件ってミスマッチなので、夕方から深夜の眼差しは必然なんでしょうけれど。
また楽しませていただきました。心身ともにいっぱいいっぱいでぐるぐるしてる毎日なんですが、いっときそういう気鬱を忘れて読み耽ることができました。ありがとうございました。